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カナダ国AB州でソーシャルワーカーしてます。 生活の一こま、カナダのニュースなど、 徒然に書き綴ってます。メールはこちら wasabisyouu@gmail.com
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先日書いた記事にコメントが着きました。

>それは、ソーシャルワーカーのエゴではないでしょうか。個人の問題にソーシャルワーカーという名の下にする正義を押し付け、ただの自己満足と感じます。

という内容です。
待ってました、こういうご意見!
意見を交換する事で、人は学んでいくので、コメント大歓迎!
コメント欄の返事には、書いた方のコメントの意味をはっきり理解するために、『それ』とはいったい何をさすのか、『個人の問題』とは誰の問題、あげる側かもらう側か、詳しく述べて頂ければ返事のしようがあるので、返事頂くよう書きましたが、音沙汰が有りません。

この方、自分の言いたい事だけ言ってすっきりしたかったようですね。むしゃくしゃして、あたり散らしたりするような方でしょう。カウンセリングやセラピーが必要ではないんでしょうか。





では、この方だけでなく、読んでる皆さんも一緒に考えてください。
長文ですから、2、3回に分けて読んで頂いた方がよろしいでしょうかねぇ。。

何度も何度もこの方のコメントを読んでいるうちに、

『それ』とは、お金をあげずに、物乞いをする人が必要としていない団体を紹介すること、だろうという気がしてきました。
『個人の問題』というのも、おじいさんが好きで物乞いをしているから、

要するに、『おせっかい。』

おじいさんには必要ない団体を教えようとしているのが、自己満足。

また、個人の問題=お金をあげるもあげないもの、あげる人個人の判断。

また、正義とは、お金をあげないということを、人々に押し付けているということ。

という風に、理解し始めました。(書いた本人にしか、意図は分からないので、推測の限りです)



さてさて、まず『正義』から。

揚げ足とりにはなりたく無いですが、『正しい行動だ』と言ったが、『正義』だとは一言も言っていない。

ソーシャルワーカーがからみて、『社会正義』というのは、人々の福利をmaxにする事。

『社会に見られる不正義の改善と利用者の問題解決のため、利用者や他の専門職等と連帯し、効果的な方法により社会に働きかけます。』

このおじいさんは盲目によって、人権が犯された場合(差別を受けたり、仕事が見つからなかったり)その人権を守り、おじいさんのソーシャルネットワークを最大に生かし、雇用側にお雇用促進したり、バリヤーや障害をなくして行く様にするにするのが、社会の義務であり、正義である。

物乞い、ホームレスの人々は健康衛生、危険にさらされています。その人たちが、無差別殺人のターゲットにもさらされたり、Hap A,B, HIDSなどに感染したり、殺されるに値するのでしょうか?


『個人の問題』をさすのは、盲目のおじいさんが、いろいろある選択肢の中で物乞いを選んだ場合。
本当に、選んだんでしょうか?いろいろなサポートが有るのに、知らない、調べる術が分からない。教えてくれる人がいない。
そういう障害がいくつも重なって、物乞いになりざる終えなかったのと、
いろいろ知っていて、結局物乞いになる事を選んだという、この二つのシナリオが有った場合、どう思いますか?

このプログで、先日この市にあるSocial Services Agenciesのリストを載せるまで、こういう団体が、エドモントンに有ったんだ。って初めて知った人はどのくらいいるでしょう?(このリストはまだまだ続きますょ)。

私たちには、『知る権利』というのが有ります。でも、知る権利という権利が与えられ得なかったり、権利を使う事が出来ないとどうでしょう?

また、このおじいさん、一人でこの世に産まれて来た訳ではないですから、過去には家族、親類、友達などのソーシャルネットワークがあったはずです。(孤児院で育てられたのであったとしても、何らかのサポートが有ったはずです。)無ければ、サポートや知識を得る術を一緒に学び、自立して行ける様にサポートするのがSWのあり方です。

一人一人離れて行ったり、自分から進んでひとりぼっちになって、物乞いを選んだんでしょうか?



『個人の問題』が、あげる側だとしたらば。

もちろん、物乞いにお金をあげるのは、個人の自由ですが、あげた場合のconsequences(結果)を考えた事が有りますか?

ある人たちが、$5あげて、今日一日のご飯にありつけたとしても、このおじいさん明日の分はどうします?
また明日、物乞いをしなければなりません。人々があげる事で、物乞いをEncouragement(奨励)してるのです。
私に言わせるならば、あげた人の自己満足。こちらは、一時的な絆創膏のような者で、解決策にはなりません。

もし、毎日毎日、同じ人を町で見かけたら、お金を毎日毎日あげるのでしょうか?
これも個人の問題でしょうか?
しまいには、がっかりしてあげなくなってしまいます。なら、最初からあげなければ良いのに。っと私は思います。

この市の研究者が、この市にいるホームレス一人一人にインタヴィー調査をしたところ、約8割の人は、『ホームレスから抜け出したい』と言っているそうです。
IDが無かったり、頼る人がいなかったり、そいういうサポートを充実させ、人々の福利やCapacityにする事が、ソーシャルワークで言う、社会正義です。


また、あげる人がいるから、物乞いという手段が成り立っている訳で、需要と供給のバランス同じく、あげる人がいなくなれば違う手段に移るでしょう。
それが犯罪なのか、気を取り直して、ベットや食事を自分で働くという事で人生をやり直すことなのか(それが、ソーシャルワーカーなどの願いで)物乞いやホームレスをなくす様にがんばっているSWはには、この市にたくさんいます。



もちろん、ソーシャルワーク、プラクティスは、どこからとも無くやって来て、紙切れ一枚あげ、『はい、あなた、ここへ行きなさい』って5分もせずに帰って行くのでは有りません。


まずは、ホームレス、物乞いをする人たちと、信頼出来る関係を作ります。
『Hi, How are you doing?』の様に、週2、3回出掛けて行っては、話をし、信頼関係を築きます。『私の事を気遣っているのだ』という心と心の絆が産まれれば、身の上話や困っている事を話したり、相談相手になったりする事が出来ます。

3ヶ月か、1年かかるか分かりませんが、良い関係を築く事により、物乞いしなくても住むような生活がサポート出来る事を伝え、導きます。

先日のビデオクリップのメッセージの用に、巧みな話術で導いて行くのです。
この話術が巧みである事がクリニカル、ソーシャルワーカーに必要な技術です。




最後に『個人の問題』という考え方は、少し危険性をはらみます。

個人の問題は、社会の問題です。

例えば『個人の問題』という考え方の延長線上に有るのは、『家庭内の問題』は、その家の問題だから他の人があれこれ言う必要は無い。という考え方です。

児童虐待、老人虐待、夫婦間の虐待、これらは、『家庭内の問題』だったため、ずっとプライベートとされて、社会問題になっていませんでした。
家族のメンバーを殴ったり、嫌みな事を言ったりしたりするのは、家庭内の問題なので、他の人がとやかく言う必要がないと言えますか?
こういう虐待が延々続くのを防ぎ、助けようとするのがSWの自己満足なんでしょうか??






コメントを書かれた方、この記事を読んで頂ければ幸いなのですが、前の記事の補足兼コメント返しをさせて頂いたつもりです。前記事の意図を少しでも分かって頂ければ幸いです。

また、他の方が、ご質問ご意見などが有ればどうぞ。

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まずは、このビデオから。





言葉の使い方、言い方、言霊、

言い方を変えると、世界を変える。

というメッセージは良く伝わった、だからポジティブサイコロジーというのがあるのだが、


他の人がコメントしている程、山葵には感動受けなかった。



なぜならば、物乞いにお金をあげても、世界は変わらない。



"It's a beautiful day, but I cannot see it."

これは、人々の哀れみを誘う言葉で、




れっきとした


Manipulation


哀れみをかき立てる、巧みな言葉の操作である。



山葵が不快に思った点。

1)哀れみは、英語ではPityという言葉が当てはまるが、自分よりかわいそうな人を気の毒に思うこと。

上からの目線である。チャリティーは、哀れみからくる部分が大きい。

哀れみより、同情すべきなのである。

同情とは、他人の身の上になって、その感情をともにすること。

特に他人の不幸や苦悩を、自分のことのように思いやっていたわること。


Put oneself in another person's shoes である。

こちらがソーシャルワークなのである。



2)盲目のおじいさんが、こうならないようにすること。

このおじいさんの家族はいったいどこへ行ってしまったんだろう?

なぜ、こうなってしまったんだろう?と私は考える。

Panhandler (物乞い)にお金を与えず、このおじいさんを助けるような団体に寄付する事が正しい行動である。

もう一つするなら、このおじいさんを助けるような団体を、そのおじいさんに紹介する事。

点字サービスや、通訳者はいくらでもいらっしゃるだろうし、意思の疎通というのは、少しの勇気があれば、誰とでも出来るはずである。



もし、この市で物乞いを見かけたら、まず、自分自身に聞いてください。

『彼/彼女は哀れだな』と思っているのだったら、黄色信号。


お金をその人にあげないで、その分を団体に寄付してください。



もし、モールの駐車場や、道ばたで、『先週、○○に殴られてお金をとられた、一文無しだから、バス代をくれないか』

とか、聞かれたら、英語が分からないふり、又は、

小銭を持っていないと言って、振り切る様にしてください。

駐車場のような、人通りの多い所だと、殴られるような事はないと思いますが、

もし、暗がりで人通りの少ない所だと(財布を見せずに)ポケットのチャリセンでも

良いから、あげてください。

その前に、暗がりで人通りの少ない所は、歩かないでくださいね。



まとまりの無い分になったが、ソーシャルワークは慈善事業ではないし、キリスト教に基づいているものでもない。

哀れみよりも同情するという事が必要であるが、ソーシャルワークの最終目的は、

SWの手助けがいらなくなるように、そして、自分で問題やバリアを追っ払う事ができる様に支援することがソーシャルワークなのである。


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ネットをぶらぶらとサーフしていた所、面白いフレーズを見つけた。



You would drink too,


If you were.....





A Social Worker



(リンクは貼れなかった。)




日本語訳が、『余りに飲み物の-ソーシャルワーカー』





訳、ちゃいまっせーー。



正しい訳+注釈、








『お酒に飲むよねー、



もしあなたが、


ソーシャルワーカーだったら』






毎日毎日、いろんな悲しい出来事を聞いて、

例えば、子供と引き離される親御さん、

不治の病で余命を言い渡されている患者さん、

レイプされたり、障害で偏見や困難と常に戦わなければ成らない方が

魔法や奇跡などおこらないかぎり、私の力ではどうしようもないことが

あったりすると、自分の無能さや世の不公平さを目の当たりにして、

酒でもあおらないとやっていられない。


これが続くと、Burn-out(燃え尽き)やcompassionate fatigue (同情心の減退)で仕事に支障をきたす。


自分にあった気分転換が必要ですね。


今の私、そんじゃそこらの出来事では、あんまりビックリしなくなったし、

泣かなくなったし、かわいそうだと感じなくなって来た、同情心の減退が感じられる。

ちょっとヤバいかもしれない。

仕事、卒論、プライベートのバランスがまったくとれてない。

ゆっくり休憩が必要かもしれない。(こないだ3週間の休暇とったばかり出し。。)

はぁ。

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実は今日、大学の卒業式(convocation という)があった。

もちろん私は、卒論が終わっていないので、コンボケは来年になるだろう。


私のBSWの同期が、8ヶ月でMSWを終えた。

他の学科とは違い、MSWは1年で終わるところがある(卒論を選ばす、コースベース)。

しかも1学期に5コース、そして実習とかなりハード。




しかも、学年トップの成績で、賞を取ったらしい。


私は2年経っても終わっていないどころか、3年かかる。

パートタイムで1学期2教科のペース、そして卒論をやっているから、

しょうがないと言えばしょうがないのだが、私自身、うらやましいとうか、やきもちを焼いているようだ。


でもね、SWというのは、医者や看護士さんと一緒で、どんなに頭がキレて、

賢くても、人となり、クライアントを大事にする心が重要だと私は思う。

『病を見て、人を見ず』とかっていう文句を、昨日みた

ディアドクターと言うドラマでいっていた。



鶴瓶医者『医者の資格がないねん』

インターン『何を持って医者の資格があるというんですか?』



というやり取りが、一番心に残った。

SWも一緒だと思う、人を思いやる心使い、気持ち、人となりが、この職業に

深く関わっている。


成績がよいだけで、いいSWになれるだろうか。

果たして私は、クライアントの立場に立って、caringなSWだろうか。

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先日家庭訪問している最中に、22歳のお母さん、突然おなかが痛いと言い出した。

子供がフォスターファミリーに戻る時間ギリギリまでなんとかもったが、

あまりにも痛いというので、近くの病院のER(救急室)へ連れて行った。


もちろん午後の他のクライアントととのアポはすべてキャンセル。



おなかがポッコリふくれており、歩けない程痛がっていたので、

すぐに中に入れてくれ、医者が見てくれることになった。



おなかが大きいので、

『妊娠ではないか』

『妊娠していたとしたら、もしかしたら赤ちゃんに何かかが。。、』


という思いがお母さんと私の頭の中でぐらぐら。。


6週間ぐらい生理が来ていないので、妊娠6週ではないかとのこと。

このくらいだと、まだエコーでは映らないから、またどうしてこんなに痛みがするのかをチェックするのに、血液、尿検などの一式の検査。


余りの痛さに、医者はモルヒネをうった。彼女の目がより目になっていって、

起きていた上半身がすぐにぐらっと、ベッドに倒れ込んだ。

(わさび、始めてモルヒネをうたれた患者さんを見てしまった。

心の中で、オーマイゴーーー!)


ERで一人でいるのは怖い(誰でももちろんそう)ので、原因が分かるまでいて欲しいと言われた。

ERでクライアントと一緒にいるのは、何度か有るが、

このクライアントは、PSTDを煩っており、一言一言、言葉を選ばないといけないのである。

ゆっくり、考えながら彼女と医者の動向を、否定もせず肯定もせず、

心理的なダメージを与えないように、会話を勧めて行くのは、

英語が母国語ではない私には、非常に辛い。

この時ばかりは、クライアントを触らないという、私の掟を解禁し、

手を握ったり、背中をさすったり、笑わせたり、非常に長くて短い

6時間のセラピー権カウンセリングセッションだったような気がする。



その間、もう一回モルヒネをうたれた。

2回目は1回目より少し投薬量が多かったらしい。

一通りの検査をし、妊娠していないことが分かったので、レントゲン検査をした。




私はまた、言語がまだまだと実感した1日であり、私にはERのSWは向いていないかもしれない、と思った。


結局、妊娠しておらず(彼女の喜びはひとしおだった。既に2人もいるのである。痛みをこらえながら、とてもうれしそうな顔をしていた)。

おなかにガスが溜まって、ぷっくりふくれ痛みをおこしていたらしい。



早速、修行のため、Crisisの時やこんな時のためになんと言えば良いか、というような本を探すことにした。


家へ帰ると、どっと疲れが来て、お昼を食べていないことを思い出した。

その後、頭と心の切り替えがうまく出来ず、まだその日あった出来事を考えてしまい、無力とストレスからか旦那に当たってしまった。

久しぶりの大げんかをしてしまったのは言うまでもない。

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