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無題
Yojinbo それは、ソーシャルワーカーのエゴではないでしょうか。個人の問題にソーシャルワーカーという名の下にする正義を押し付け、ただの自己満足と感じます。
無題
Yojinbo どうも。コメントしたものです。ブログのコメント数がずっと1だったので、お返事いただけていたとは気づきませんでした。てっきり、ブログ主がコメントするとコメント数は2になるとばかり思っていました。失礼しました。
私的なたわごとにわざわざお返事いただけて、ありがたく思います。ただ、言いたいことだけ行って、当り散らしているわけではございませんので悪しからず。
「それ」が何を指すか、確かに詳しく書かず、誤解を与えてしまい、申し訳ございません。「それ」は”哀れみより、同情すべきなのである。同情とは、他人の身の上になって、その感情をともにすること。特に他人の不幸や苦悩を、自分のことのように思いやっていたわること。Put oneself in another person's shoes である。こちらがソーシャルワークなのである。”という部分です。果たして、社会の人はそれを望んでいるのでしょうか?という疑問からコメントしました。正直なところ、ビデオクリップの物乞いの動画は特に細かく議論しようとは思っていません。ただ、ソーシャルワーカーの存在意義については、まだまだ私は懐疑的です。だから、わらびさんのブログは興味深く読ませていただいています。懐疑的な理由は、助けを必要としていない人にまで、社会的に見て、必要だろうと判断して勝手にソーシャルワーカー側から来るというイメージだからです。本当に助けが必要なら、必要だということもできるはずですが、ソーシャルワーカー的に見ると、社会的弱者は、助けが必要な状況にすら気づいていない。だから、気づかせてあげるわ。というまさに上から教える感じがします。そこには、本当に
Put oneself in another person's shoes といえるのか?むしろ、立場を理解するというより、その人にとって、より試練を与えるだけという感じもします。社会的弱者の快適さの追及ではなく、はっきりといえば、社会全体の快適さを追求していると言ってもらった方が素人にはソーシャルワーカーの立場を理解しやすいという思いで書きました。エゴというのは、まさにこのことです。私の理解不足で、誤解があれば是非専門家から教えていただければ幸いです。
無題
Yojinbo 返事頂くよう書きましたが、音沙汰が有りません。
この方、自分の言いたい事だけ言ってすっきりしたかったようですね。むしゃくしゃして、あたり散らしたりするような方でしょう。カウンセリングやセラピーが必要ではないんでしょうか。
そのままお返しします。
ソーシャルワークの意義
まこ 山葵さん、Yojinboさん、こんにちは。
*SW(ソーシャルワーク)の職域は多岐に渡り、一概には言えませんが、特に、公的機関の事業に携わる場合、特に、社会(=公的機関)が善としている価値を、個人に押し付ける面が出てくることは否めません。又、社会の価値を個人の価値がぶつかることはあります。でも、このようなジレンマ・葛藤を抱えているのは、他の援助職(保健、教育、司法など)でも言える事です。これを、エゴだからと排除すると、どうなることでしょう。一方、援助者は、ともすると社会エゴ、さらにその職場特有のエゴ、また、自分の個人のエゴでさえも、業務に入り込むというリスクを自覚しておく必要はあるでしょう。
*SWは、援助をしている人たちが、既製の援助サービスにつながらないでいる現象をどうにかするために発達してきた一面があります。援助にどうしてつながらないか・・・サービスの知識がない、手続きやシステムがよくわからない、手続きに行く交通手段がない、ということもあります。一方、それまでの人生でに叩かれすぎて、「もう、何もしたくない」「自分はどうせこれでいいんだ」と、「今の(悲惨な)生活を続けるほうが楽、援助などはいらん」と本気で思っているものの、心の深層では、よりよい生活を願っている人もいるのです、でも、「その願う」ことすら否定しないと心がつぶされそうになるところにいる人たち。そういう願いを持つことすら悪いことだと感じるような成育歴の人たちもいます。。又、そのような判断も出来ないほど弱っている人もいるのです。SWは、このように、生生活向上に役に立つ援助をうけるのに障害になっているもの(現実の生活上のものや心理的なものも含めて)を発見し対処し、その人が本当のその人の願いに気づき、その実現に必要な力を育てたり、必要な援助につなげたり、という役目があります。このような障害は非常に個別的なので、SWの仕事もそれに合わせて広がります。例えば、病院で入院治療が必要でも受けたがらない患者さんがいます。その患者さんの事情まで、医師や看護士では、なかなか、手をかけられない、そこで、SWが、患者さんの事情を聞いて、経済的な障害があるか、介護のいる家族がいるので入院できないと思っているのか、医療不信が強いのか、自宅を離れるのが怖いのか、、とか、そういう面を援助することもあります。そういう問題の解決を助けるとか、外来治療の道を医師たちを話し合うとか、そういう役目をSWがになう場合があります。
Yojinbo それは、ソーシャルワーカーのエゴではないでしょうか。個人の問題にソーシャルワーカーという名の下にする正義を押し付け、ただの自己満足と感じます。
無題
Yojinbo どうも。コメントしたものです。ブログのコメント数がずっと1だったので、お返事いただけていたとは気づきませんでした。てっきり、ブログ主がコメントするとコメント数は2になるとばかり思っていました。失礼しました。
私的なたわごとにわざわざお返事いただけて、ありがたく思います。ただ、言いたいことだけ行って、当り散らしているわけではございませんので悪しからず。
「それ」が何を指すか、確かに詳しく書かず、誤解を与えてしまい、申し訳ございません。「それ」は”哀れみより、同情すべきなのである。同情とは、他人の身の上になって、その感情をともにすること。特に他人の不幸や苦悩を、自分のことのように思いやっていたわること。Put oneself in another person's shoes である。こちらがソーシャルワークなのである。”という部分です。果たして、社会の人はそれを望んでいるのでしょうか?という疑問からコメントしました。正直なところ、ビデオクリップの物乞いの動画は特に細かく議論しようとは思っていません。ただ、ソーシャルワーカーの存在意義については、まだまだ私は懐疑的です。だから、わらびさんのブログは興味深く読ませていただいています。懐疑的な理由は、助けを必要としていない人にまで、社会的に見て、必要だろうと判断して勝手にソーシャルワーカー側から来るというイメージだからです。本当に助けが必要なら、必要だということもできるはずですが、ソーシャルワーカー的に見ると、社会的弱者は、助けが必要な状況にすら気づいていない。だから、気づかせてあげるわ。というまさに上から教える感じがします。そこには、本当に
Put oneself in another person's shoes といえるのか?むしろ、立場を理解するというより、その人にとって、より試練を与えるだけという感じもします。社会的弱者の快適さの追及ではなく、はっきりといえば、社会全体の快適さを追求していると言ってもらった方が素人にはソーシャルワーカーの立場を理解しやすいという思いで書きました。エゴというのは、まさにこのことです。私の理解不足で、誤解があれば是非専門家から教えていただければ幸いです。
無題
Yojinbo 返事頂くよう書きましたが、音沙汰が有りません。
この方、自分の言いたい事だけ言ってすっきりしたかったようですね。むしゃくしゃして、あたり散らしたりするような方でしょう。カウンセリングやセラピーが必要ではないんでしょうか。
そのままお返しします。
ソーシャルワークの意義
まこ 山葵さん、Yojinboさん、こんにちは。
*SW(ソーシャルワーク)の職域は多岐に渡り、一概には言えませんが、特に、公的機関の事業に携わる場合、特に、社会(=公的機関)が善としている価値を、個人に押し付ける面が出てくることは否めません。又、社会の価値を個人の価値がぶつかることはあります。でも、このようなジレンマ・葛藤を抱えているのは、他の援助職(保健、教育、司法など)でも言える事です。これを、エゴだからと排除すると、どうなることでしょう。一方、援助者は、ともすると社会エゴ、さらにその職場特有のエゴ、また、自分の個人のエゴでさえも、業務に入り込むというリスクを自覚しておく必要はあるでしょう。
*SWは、援助をしている人たちが、既製の援助サービスにつながらないでいる現象をどうにかするために発達してきた一面があります。援助にどうしてつながらないか・・・サービスの知識がない、手続きやシステムがよくわからない、手続きに行く交通手段がない、ということもあります。一方、それまでの人生でに叩かれすぎて、「もう、何もしたくない」「自分はどうせこれでいいんだ」と、「今の(悲惨な)生活を続けるほうが楽、援助などはいらん」と本気で思っているものの、心の深層では、よりよい生活を願っている人もいるのです、でも、「その願う」ことすら否定しないと心がつぶされそうになるところにいる人たち。そういう願いを持つことすら悪いことだと感じるような成育歴の人たちもいます。。又、そのような判断も出来ないほど弱っている人もいるのです。SWは、このように、生生活向上に役に立つ援助をうけるのに障害になっているもの(現実の生活上のものや心理的なものも含めて)を発見し対処し、その人が本当のその人の願いに気づき、その実現に必要な力を育てたり、必要な援助につなげたり、という役目があります。このような障害は非常に個別的なので、SWの仕事もそれに合わせて広がります。例えば、病院で入院治療が必要でも受けたがらない患者さんがいます。その患者さんの事情まで、医師や看護士では、なかなか、手をかけられない、そこで、SWが、患者さんの事情を聞いて、経済的な障害があるか、介護のいる家族がいるので入院できないと思っているのか、医療不信が強いのか、自宅を離れるのが怖いのか、、とか、そういう面を援助することもあります。そういう問題の解決を助けるとか、外来治療の道を医師たちを話し合うとか、そういう役目をSWがになう場合があります。
まずは、このビデオから。
言葉の使い方、言い方、言霊、
言い方を変えると、世界を変える。
というメッセージは良く伝わった、だからポジティブサイコロジーというのがあるのだが、
他の人がコメントしている程、山葵には感動受けなかった。
なぜならば、物乞いにお金をあげても、世界は変わらない。
"It's a beautiful day, but I cannot see it."
これは、人々の哀れみを誘う言葉で、
れっきとした
Manipulation
哀れみをかき立てる、巧みな言葉の操作である。
山葵が不快に思った点。
1)哀れみは、英語ではPityという言葉が当てはまるが、自分よりかわいそうな人を気の毒に思うこと。
上からの目線である。チャリティーは、哀れみからくる部分が大きい。
哀れみより、同情すべきなのである。
同情とは、他人の身の上になって、その感情をともにすること。
特に他人の不幸や苦悩を、自分のことのように思いやっていたわること。
Put oneself in another person's shoes である。
こちらがソーシャルワークなのである。
2)盲目のおじいさんが、こうならないようにすること。
このおじいさんの家族はいったいどこへ行ってしまったんだろう?
なぜ、こうなってしまったんだろう?と私は考える。
Panhandler (物乞い)にお金を与えず、このおじいさんを助けるような団体に寄付する事が正しい行動である。
もう一つするなら、このおじいさんを助けるような団体を、そのおじいさんに紹介する事。
点字サービスや、通訳者はいくらでもいらっしゃるだろうし、意思の疎通というのは、少しの勇気があれば、誰とでも出来るはずである。
もし、この市で物乞いを見かけたら、まず、自分自身に聞いてください。
『彼/彼女は哀れだな』と思っているのだったら、黄色信号。
お金をその人にあげないで、その分を団体に寄付してください。
もし、モールの駐車場や、道ばたで、『先週、○○に殴られてお金をとられた、一文無しだから、バス代をくれないか』
とか、聞かれたら、英語が分からないふり、又は、
小銭を持っていないと言って、振り切る様にしてください。
駐車場のような、人通りの多い所だと、殴られるような事はないと思いますが、
もし、暗がりで人通りの少ない所だと(財布を見せずに)ポケットのチャリセンでも
良いから、あげてください。
その前に、暗がりで人通りの少ない所は、歩かないでくださいね。
まとまりの無い分になったが、ソーシャルワークは慈善事業ではないし、キリスト教に基づいているものでもない。
哀れみよりも同情するという事が必要であるが、ソーシャルワークの最終目的は、
SWの手助けがいらなくなるように、そして、自分で問題やバリアを追っ払う事ができる様に支援することがソーシャルワークなのである。
言葉の使い方、言い方、言霊、
言い方を変えると、世界を変える。
というメッセージは良く伝わった、だからポジティブサイコロジーというのがあるのだが、
他の人がコメントしている程、山葵には感動受けなかった。
なぜならば、物乞いにお金をあげても、世界は変わらない。
"It's a beautiful day, but I cannot see it."
これは、人々の哀れみを誘う言葉で、
れっきとした
Manipulation
哀れみをかき立てる、巧みな言葉の操作である。
山葵が不快に思った点。
1)哀れみは、英語ではPityという言葉が当てはまるが、自分よりかわいそうな人を気の毒に思うこと。
上からの目線である。チャリティーは、哀れみからくる部分が大きい。
哀れみより、同情すべきなのである。
同情とは、他人の身の上になって、その感情をともにすること。
特に他人の不幸や苦悩を、自分のことのように思いやっていたわること。
Put oneself in another person's shoes である。
こちらがソーシャルワークなのである。
2)盲目のおじいさんが、こうならないようにすること。
このおじいさんの家族はいったいどこへ行ってしまったんだろう?
なぜ、こうなってしまったんだろう?と私は考える。
Panhandler (物乞い)にお金を与えず、このおじいさんを助けるような団体に寄付する事が正しい行動である。
もう一つするなら、このおじいさんを助けるような団体を、そのおじいさんに紹介する事。
点字サービスや、通訳者はいくらでもいらっしゃるだろうし、意思の疎通というのは、少しの勇気があれば、誰とでも出来るはずである。
もし、この市で物乞いを見かけたら、まず、自分自身に聞いてください。
『彼/彼女は哀れだな』と思っているのだったら、黄色信号。
お金をその人にあげないで、その分を団体に寄付してください。
もし、モールの駐車場や、道ばたで、『先週、○○に殴られてお金をとられた、一文無しだから、バス代をくれないか』
とか、聞かれたら、英語が分からないふり、又は、
小銭を持っていないと言って、振り切る様にしてください。
駐車場のような、人通りの多い所だと、殴られるような事はないと思いますが、
もし、暗がりで人通りの少ない所だと(財布を見せずに)ポケットのチャリセンでも
良いから、あげてください。
その前に、暗がりで人通りの少ない所は、歩かないでくださいね。
まとまりの無い分になったが、ソーシャルワークは慈善事業ではないし、キリスト教に基づいているものでもない。
哀れみよりも同情するという事が必要であるが、ソーシャルワークの最終目的は、
SWの手助けがいらなくなるように、そして、自分で問題やバリアを追っ払う事ができる様に支援することがソーシャルワークなのである。
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無題
Yojinbo それは、ソーシャルワーカーのエゴではないでしょうか。個人の問題にソーシャルワーカーという名の下にする正義を押し付け、ただの自己満足と感じます。
無題
Yojinbo どうも。コメントしたものです。ブログのコメント数がずっと1だったので、お返事いただけていたとは気づきませんでした。てっきり、ブログ主がコメントするとコメント数は2になるとばかり思っていました。失礼しました。
私的なたわごとにわざわざお返事いただけて、ありがたく思います。ただ、言いたいことだけ行って、当り散らしているわけではございませんので悪しからず。
「それ」が何を指すか、確かに詳しく書かず、誤解を与えてしまい、申し訳ございません。「それ」は”哀れみより、同情すべきなのである。同情とは、他人の身の上になって、その感情をともにすること。特に他人の不幸や苦悩を、自分のことのように思いやっていたわること。Put oneself in another person's shoes である。こちらがソーシャルワークなのである。”という部分です。果たして、社会の人はそれを望んでいるのでしょうか?という疑問からコメントしました。正直なところ、ビデオクリップの物乞いの動画は特に細かく議論しようとは思っていません。ただ、ソーシャルワーカーの存在意義については、まだまだ私は懐疑的です。だから、わらびさんのブログは興味深く読ませていただいています。懐疑的な理由は、助けを必要としていない人にまで、社会的に見て、必要だろうと判断して勝手にソーシャルワーカー側から来るというイメージだからです。本当に助けが必要なら、必要だということもできるはずですが、ソーシャルワーカー的に見ると、社会的弱者は、助けが必要な状況にすら気づいていない。だから、気づかせてあげるわ。というまさに上から教える感じがします。そこには、本当に
Put oneself in another person's shoes といえるのか?むしろ、立場を理解するというより、その人にとって、より試練を与えるだけという感じもします。社会的弱者の快適さの追及ではなく、はっきりといえば、社会全体の快適さを追求していると言ってもらった方が素人にはソーシャルワーカーの立場を理解しやすいという思いで書きました。エゴというのは、まさにこのことです。私の理解不足で、誤解があれば是非専門家から教えていただければ幸いです。
無題
Yojinbo 返事頂くよう書きましたが、音沙汰が有りません。
この方、自分の言いたい事だけ言ってすっきりしたかったようですね。むしゃくしゃして、あたり散らしたりするような方でしょう。カウンセリングやセラピーが必要ではないんでしょうか。
そのままお返しします。
ソーシャルワークの意義
まこ 山葵さん、Yojinboさん、こんにちは。
*SW(ソーシャルワーク)の職域は多岐に渡り、一概には言えませんが、特に、公的機関の事業に携わる場合、特に、社会(=公的機関)が善としている価値を、個人に押し付ける面が出てくることは否めません。又、社会の価値を個人の価値がぶつかることはあります。でも、このようなジレンマ・葛藤を抱えているのは、他の援助職(保健、教育、司法など)でも言える事です。これを、エゴだからと排除すると、どうなることでしょう。一方、援助者は、ともすると社会エゴ、さらにその職場特有のエゴ、また、自分の個人のエゴでさえも、業務に入り込むというリスクを自覚しておく必要はあるでしょう。
*SWは、援助をしている人たちが、既製の援助サービスにつながらないでいる現象をどうにかするために発達してきた一面があります。援助にどうしてつながらないか・・・サービスの知識がない、手続きやシステムがよくわからない、手続きに行く交通手段がない、ということもあります。一方、それまでの人生でに叩かれすぎて、「もう、何もしたくない」「自分はどうせこれでいいんだ」と、「今の(悲惨な)生活を続けるほうが楽、援助などはいらん」と本気で思っているものの、心の深層では、よりよい生活を願っている人もいるのです、でも、「その願う」ことすら否定しないと心がつぶされそうになるところにいる人たち。そういう願いを持つことすら悪いことだと感じるような成育歴の人たちもいます。。又、そのような判断も出来ないほど弱っている人もいるのです。SWは、このように、生生活向上に役に立つ援助をうけるのに障害になっているもの(現実の生活上のものや心理的なものも含めて)を発見し対処し、その人が本当のその人の願いに気づき、その実現に必要な力を育てたり、必要な援助につなげたり、という役目があります。このような障害は非常に個別的なので、SWの仕事もそれに合わせて広がります。例えば、病院で入院治療が必要でも受けたがらない患者さんがいます。その患者さんの事情まで、医師や看護士では、なかなか、手をかけられない、そこで、SWが、患者さんの事情を聞いて、経済的な障害があるか、介護のいる家族がいるので入院できないと思っているのか、医療不信が強いのか、自宅を離れるのが怖いのか、、とか、そういう面を援助することもあります。そういう問題の解決を助けるとか、外来治療の道を医師たちを話し合うとか、そういう役目をSWがになう場合があります。
Yojinbo それは、ソーシャルワーカーのエゴではないでしょうか。個人の問題にソーシャルワーカーという名の下にする正義を押し付け、ただの自己満足と感じます。
無題
Yojinbo どうも。コメントしたものです。ブログのコメント数がずっと1だったので、お返事いただけていたとは気づきませんでした。てっきり、ブログ主がコメントするとコメント数は2になるとばかり思っていました。失礼しました。
私的なたわごとにわざわざお返事いただけて、ありがたく思います。ただ、言いたいことだけ行って、当り散らしているわけではございませんので悪しからず。
「それ」が何を指すか、確かに詳しく書かず、誤解を与えてしまい、申し訳ございません。「それ」は”哀れみより、同情すべきなのである。同情とは、他人の身の上になって、その感情をともにすること。特に他人の不幸や苦悩を、自分のことのように思いやっていたわること。Put oneself in another person's shoes である。こちらがソーシャルワークなのである。”という部分です。果たして、社会の人はそれを望んでいるのでしょうか?という疑問からコメントしました。正直なところ、ビデオクリップの物乞いの動画は特に細かく議論しようとは思っていません。ただ、ソーシャルワーカーの存在意義については、まだまだ私は懐疑的です。だから、わらびさんのブログは興味深く読ませていただいています。懐疑的な理由は、助けを必要としていない人にまで、社会的に見て、必要だろうと判断して勝手にソーシャルワーカー側から来るというイメージだからです。本当に助けが必要なら、必要だということもできるはずですが、ソーシャルワーカー的に見ると、社会的弱者は、助けが必要な状況にすら気づいていない。だから、気づかせてあげるわ。というまさに上から教える感じがします。そこには、本当に
Put oneself in another person's shoes といえるのか?むしろ、立場を理解するというより、その人にとって、より試練を与えるだけという感じもします。社会的弱者の快適さの追及ではなく、はっきりといえば、社会全体の快適さを追求していると言ってもらった方が素人にはソーシャルワーカーの立場を理解しやすいという思いで書きました。エゴというのは、まさにこのことです。私の理解不足で、誤解があれば是非専門家から教えていただければ幸いです。
無題
Yojinbo 返事頂くよう書きましたが、音沙汰が有りません。
この方、自分の言いたい事だけ言ってすっきりしたかったようですね。むしゃくしゃして、あたり散らしたりするような方でしょう。カウンセリングやセラピーが必要ではないんでしょうか。
そのままお返しします。
ソーシャルワークの意義
まこ 山葵さん、Yojinboさん、こんにちは。
*SW(ソーシャルワーク)の職域は多岐に渡り、一概には言えませんが、特に、公的機関の事業に携わる場合、特に、社会(=公的機関)が善としている価値を、個人に押し付ける面が出てくることは否めません。又、社会の価値を個人の価値がぶつかることはあります。でも、このようなジレンマ・葛藤を抱えているのは、他の援助職(保健、教育、司法など)でも言える事です。これを、エゴだからと排除すると、どうなることでしょう。一方、援助者は、ともすると社会エゴ、さらにその職場特有のエゴ、また、自分の個人のエゴでさえも、業務に入り込むというリスクを自覚しておく必要はあるでしょう。
*SWは、援助をしている人たちが、既製の援助サービスにつながらないでいる現象をどうにかするために発達してきた一面があります。援助にどうしてつながらないか・・・サービスの知識がない、手続きやシステムがよくわからない、手続きに行く交通手段がない、ということもあります。一方、それまでの人生でに叩かれすぎて、「もう、何もしたくない」「自分はどうせこれでいいんだ」と、「今の(悲惨な)生活を続けるほうが楽、援助などはいらん」と本気で思っているものの、心の深層では、よりよい生活を願っている人もいるのです、でも、「その願う」ことすら否定しないと心がつぶされそうになるところにいる人たち。そういう願いを持つことすら悪いことだと感じるような成育歴の人たちもいます。。又、そのような判断も出来ないほど弱っている人もいるのです。SWは、このように、生生活向上に役に立つ援助をうけるのに障害になっているもの(現実の生活上のものや心理的なものも含めて)を発見し対処し、その人が本当のその人の願いに気づき、その実現に必要な力を育てたり、必要な援助につなげたり、という役目があります。このような障害は非常に個別的なので、SWの仕事もそれに合わせて広がります。例えば、病院で入院治療が必要でも受けたがらない患者さんがいます。その患者さんの事情まで、医師や看護士では、なかなか、手をかけられない、そこで、SWが、患者さんの事情を聞いて、経済的な障害があるか、介護のいる家族がいるので入院できないと思っているのか、医療不信が強いのか、自宅を離れるのが怖いのか、、とか、そういう面を援助することもあります。そういう問題の解決を助けるとか、外来治療の道を医師たちを話し合うとか、そういう役目をSWがになう場合があります。
この記事へのコメント
それは、ソーシャルワーカーのエゴではないでしょうか。個人の問題にソーシャルワーカーという名の下にする正義を押し付け、ただの自己満足と感じます。
Re:無題
待ってました,こういうご意見!
人は意見の交換をする事によって、学んで行きますので、こういうコメント大歓迎です!
その前に、ご質問の意味をちゃんと理解するため、質問させて頂きます。
まず、『それ』とは、どの事でしょう?お金をあげない様に勧める事ですか??
また、『個人の問題』の『個人』とは誰のことでしょう?物乞いをする人ですか?それとも、お金をあげることですか??
もう少し詳しく述べて頂くと、幸いです。
お答えが返って来次第、長くなるので、後ほどプログにて返事をさせて頂きます。
人は意見の交換をする事によって、学んで行きますので、こういうコメント大歓迎です!
その前に、ご質問の意味をちゃんと理解するため、質問させて頂きます。
まず、『それ』とは、どの事でしょう?お金をあげない様に勧める事ですか??
また、『個人の問題』の『個人』とは誰のことでしょう?物乞いをする人ですか?それとも、お金をあげることですか??
もう少し詳しく述べて頂くと、幸いです。
お答えが返って来次第、長くなるので、後ほどプログにて返事をさせて頂きます。
2011/08/07(日) 03:41 | Wasabi
どうも。コメントしたものです。ブログのコメント数がずっと1だったので、お返事いただけていたとは気づきませんでした。てっきり、ブログ主がコメントするとコメント数は2になるとばかり思っていました。失礼しました。
私的なたわごとにわざわざお返事いただけて、ありがたく思います。ただ、言いたいことだけ行って、当り散らしているわけではございませんので悪しからず。
「それ」が何を指すか、確かに詳しく書かず、誤解を与えてしまい、申し訳ございません。「それ」は”哀れみより、同情すべきなのである。同情とは、他人の身の上になって、その感情をともにすること。特に他人の不幸や苦悩を、自分のことのように思いやっていたわること。Put oneself in another person's shoes である。こちらがソーシャルワークなのである。”という部分です。果たして、社会の人はそれを望んでいるのでしょうか?という疑問からコメントしました。正直なところ、ビデオクリップの物乞いの動画は特に細かく議論しようとは思っていません。ただ、ソーシャルワーカーの存在意義については、まだまだ私は懐疑的です。だから、わらびさんのブログは興味深く読ませていただいています。懐疑的な理由は、助けを必要としていない人にまで、社会的に見て、必要だろうと判断して勝手にソーシャルワーカー側から来るというイメージだからです。本当に助けが必要なら、必要だということもできるはずですが、ソーシャルワーカー的に見ると、社会的弱者は、助けが必要な状況にすら気づいていない。だから、気づかせてあげるわ。というまさに上から教える感じがします。そこには、本当に
Put oneself in another person's shoes といえるのか?むしろ、立場を理解するというより、その人にとって、より試練を与えるだけという感じもします。社会的弱者の快適さの追及ではなく、はっきりといえば、社会全体の快適さを追求していると言ってもらった方が素人にはソーシャルワーカーの立場を理解しやすいという思いで書きました。エゴというのは、まさにこのことです。私の理解不足で、誤解があれば是非専門家から教えていただければ幸いです。
私的なたわごとにわざわざお返事いただけて、ありがたく思います。ただ、言いたいことだけ行って、当り散らしているわけではございませんので悪しからず。
「それ」が何を指すか、確かに詳しく書かず、誤解を与えてしまい、申し訳ございません。「それ」は”哀れみより、同情すべきなのである。同情とは、他人の身の上になって、その感情をともにすること。特に他人の不幸や苦悩を、自分のことのように思いやっていたわること。Put oneself in another person's shoes である。こちらがソーシャルワークなのである。”という部分です。果たして、社会の人はそれを望んでいるのでしょうか?という疑問からコメントしました。正直なところ、ビデオクリップの物乞いの動画は特に細かく議論しようとは思っていません。ただ、ソーシャルワーカーの存在意義については、まだまだ私は懐疑的です。だから、わらびさんのブログは興味深く読ませていただいています。懐疑的な理由は、助けを必要としていない人にまで、社会的に見て、必要だろうと判断して勝手にソーシャルワーカー側から来るというイメージだからです。本当に助けが必要なら、必要だということもできるはずですが、ソーシャルワーカー的に見ると、社会的弱者は、助けが必要な状況にすら気づいていない。だから、気づかせてあげるわ。というまさに上から教える感じがします。そこには、本当に
Put oneself in another person's shoes といえるのか?むしろ、立場を理解するというより、その人にとって、より試練を与えるだけという感じもします。社会的弱者の快適さの追及ではなく、はっきりといえば、社会全体の快適さを追求していると言ってもらった方が素人にはソーシャルワーカーの立場を理解しやすいという思いで書きました。エゴというのは、まさにこのことです。私の理解不足で、誤解があれば是非専門家から教えていただければ幸いです。
Re:無題
文字制限があったので、コメントの欄に新しい記事に返事を書きました。
2011/08/11(木) 05:32 | Wasabi
返事頂くよう書きましたが、音沙汰が有りません。
この方、自分の言いたい事だけ言ってすっきりしたかったようですね。むしゃくしゃして、あたり散らしたりするような方でしょう。カウンセリングやセラピーが必要ではないんでしょうか。
そのままお返しします。
この方、自分の言いたい事だけ言ってすっきりしたかったようですね。むしゃくしゃして、あたり散らしたりするような方でしょう。カウンセリングやセラピーが必要ではないんでしょうか。
そのままお返しします。
Re:無題
論文みたいなってしまって、またプログのメンテ中だったので、アップ出来ませんでしたが、新しい記事にてご返事しましたけど、アップする前にこのコメント書かれたんでしょうか。ま、良いですけれど。
2011/08/11(木) 05:49 | Wasabi
山葵さん、Yojinboさん、こんにちは。
*SW(ソーシャルワーク)の職域は多岐に渡り、一概には言えませんが、特に、公的機関の事業に携わる場合、特に、社会(=公的機関)が善としている価値を、個人に押し付ける面が出てくることは否めません。又、社会の価値を個人の価値がぶつかることはあります。でも、このようなジレンマ・葛藤を抱えているのは、他の援助職(保健、教育、司法など)でも言える事です。これを、エゴだからと排除すると、どうなることでしょう。一方、援助者は、ともすると社会エゴ、さらにその職場特有のエゴ、また、自分の個人のエゴでさえも、業務に入り込むというリスクを自覚しておく必要はあるでしょう。
*SWは、援助をしている人たちが、既製の援助サービスにつながらないでいる現象をどうにかするために発達してきた一面があります。援助にどうしてつながらないか・・・サービスの知識がない、手続きやシステムがよくわからない、手続きに行く交通手段がない、ということもあります。一方、それまでの人生でに叩かれすぎて、「もう、何もしたくない」「自分はどうせこれでいいんだ」と、「今の(悲惨な)生活を続けるほうが楽、援助などはいらん」と本気で思っているものの、心の深層では、よりよい生活を願っている人もいるのです、でも、「その願う」ことすら否定しないと心がつぶされそうになるところにいる人たち。そういう願いを持つことすら悪いことだと感じるような成育歴の人たちもいます。。又、そのような判断も出来ないほど弱っている人もいるのです。SWは、このように、生生活向上に役に立つ援助をうけるのに障害になっているもの(現実の生活上のものや心理的なものも含めて)を発見し対処し、その人が本当のその人の願いに気づき、その実現に必要な力を育てたり、必要な援助につなげたり、という役目があります。このような障害は非常に個別的なので、SWの仕事もそれに合わせて広がります。例えば、病院で入院治療が必要でも受けたがらない患者さんがいます。その患者さんの事情まで、医師や看護士では、なかなか、手をかけられない、そこで、SWが、患者さんの事情を聞いて、経済的な障害があるか、介護のいる家族がいるので入院できないと思っているのか、医療不信が強いのか、自宅を離れるのが怖いのか、、とか、そういう面を援助することもあります。そういう問題の解決を助けるとか、外来治療の道を医師たちを話し合うとか、そういう役目をSWがになう場合があります。
*SW(ソーシャルワーク)の職域は多岐に渡り、一概には言えませんが、特に、公的機関の事業に携わる場合、特に、社会(=公的機関)が善としている価値を、個人に押し付ける面が出てくることは否めません。又、社会の価値を個人の価値がぶつかることはあります。でも、このようなジレンマ・葛藤を抱えているのは、他の援助職(保健、教育、司法など)でも言える事です。これを、エゴだからと排除すると、どうなることでしょう。一方、援助者は、ともすると社会エゴ、さらにその職場特有のエゴ、また、自分の個人のエゴでさえも、業務に入り込むというリスクを自覚しておく必要はあるでしょう。
*SWは、援助をしている人たちが、既製の援助サービスにつながらないでいる現象をどうにかするために発達してきた一面があります。援助にどうしてつながらないか・・・サービスの知識がない、手続きやシステムがよくわからない、手続きに行く交通手段がない、ということもあります。一方、それまでの人生でに叩かれすぎて、「もう、何もしたくない」「自分はどうせこれでいいんだ」と、「今の(悲惨な)生活を続けるほうが楽、援助などはいらん」と本気で思っているものの、心の深層では、よりよい生活を願っている人もいるのです、でも、「その願う」ことすら否定しないと心がつぶされそうになるところにいる人たち。そういう願いを持つことすら悪いことだと感じるような成育歴の人たちもいます。。又、そのような判断も出来ないほど弱っている人もいるのです。SWは、このように、生生活向上に役に立つ援助をうけるのに障害になっているもの(現実の生活上のものや心理的なものも含めて)を発見し対処し、その人が本当のその人の願いに気づき、その実現に必要な力を育てたり、必要な援助につなげたり、という役目があります。このような障害は非常に個別的なので、SWの仕事もそれに合わせて広がります。例えば、病院で入院治療が必要でも受けたがらない患者さんがいます。その患者さんの事情まで、医師や看護士では、なかなか、手をかけられない、そこで、SWが、患者さんの事情を聞いて、経済的な障害があるか、介護のいる家族がいるので入院できないと思っているのか、医療不信が強いのか、自宅を離れるのが怖いのか、、とか、そういう面を援助することもあります。そういう問題の解決を助けるとか、外来治療の道を医師たちを話し合うとか、そういう役目をSWがになう場合があります。
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